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有名工事シリーズ:黒部ダム建設!要となったのはトンネル工事

黒部ダム建設は、高度経済成長期の日本を象徴する工事となりました。
人生をかけた工事となった方も数多く、工事に携わったそれぞれの方にドラマがあったことでしょう。

本記事では、現在でも語り継がれる工事の1つ「黒部ダム」について紹介していきます。

黒部ダムの場所は「富山県」

黒部ダムは、富山県の北アルプスにある高さ186メートルのダムで、水力発電を行うために建設されました。

富山県側からは、立山駅でケーブルカーに乗って黒部湖駅に行くことができます。
また、長野県との県境に近い場所であるため、長野県側からも扇沢駅から電気バスに乗って、黒部ダム駅までアクセス可能です。
扇沢駅までは、JR大糸線の信濃大町駅から路線バスで行けます。

どちらのルートも、市街地からは距離がありますが、日本一のダムということで、観光スポットとして人気の高い場所です。
夏から秋にかけての時期には、観光放水も行われています。

黒部ダムの工事開始~完成まで

黒部ダム トンネル工事

黒部ダムの建設には7年間の歳月を費やし、多くの人が携わりました。
それでは、黒部ダムの工事が開始されてから完成するまでの経緯について見ていきましょう。

開始時期(1956年)

黒部川は、大正時代から水力電源開発が行われていた地域で戦前、すでにいくつかの水力発電所が建設されていました。

戦後になってから、著しい経済発展にともない電力需給が急増したことを受けて、新たな発電所が必要になったのが黒部ダム建設のきっかけです。
黒部川は、水量が豊富であることや大きな落差が水力発電に適していると判断されました。

そして、関西電力が工事を開始したのは1956年のことです。
資材を輸送するための通路として、大町ルートの工事が開始されました。

最難関工事「大町トンネル」

大町トンネルの工事は、開始当初は順調でしたが、途中で破砕帯に遭遇し、黒部ダムの工事の中でも最難関といわれた工事でした。
破砕帯というのは、割れた岩の中に地下水が溜まっている地層のことで、そこを掘り進めるのは、かなり難しいとされています。

危険も大きいということで、一時は他のルートへの変更も提案されましたが、社長は強い想いで掘削の継続を決断しました。
この時の社長の決断があったからこそ、現在の黒部ダムがあるといってもいいでしょう。
現場作業員にも社長の想いが伝わり、諦めることなく掘削を続けて、7ヶ月という長い期間をかけて破砕帯を突破しました。
この時に掘り進められたのは、距離にしてみると80メートルほどですが、当時の作業員による血の滲むような努力がうかがえるでしょう。

また、当時の大町トンネルは、現在では関電トンネルとなっています。

工事完了(1963年)

大町トンネルの他にも、黒部ダム建設工事では苦難に直面する場面が多々ありました。
工事中に落盤事故や墜落事故なども起こっており、犠牲になった方は171人にもなるようです。

そして、黒部ダムが完成したのは1963年6月5日のことでした。
延べ1,000万人以上の人手を要し、総工費は531億円という非常に大規模な工事です。

黒部ダムへと繋がる現在の「関電トンネル」

関電トンネル

関電トンネルの中は、年間を通じて気温が低く、夏でも10度くらいまでしか上がりません。
勾配も最大13度と急で、当時の過酷な作業が想像できます。

また、上で紹介した破砕帯だった長さ約80メートルの部分には、それを示すための看板や青い照明が付いています。
この関電トンネルは、扇沢駅と黒部ダム駅との間を通っている電気バスが通るルートです。
トンネル内で降りることはできませんが、興味のある方は、ぜひ電気バスに乗って関電トンネルを見てみてはいかがでしょうか。

現在でも語り継がれる「黒部ダム建設」

黒部ダムは、戦後間もない時期に7年の歳月を費やして建設された日本一の巨大ダムで、その建設には多大な労力を要しました。
中でも、破砕帯とぶつかった大町トンネルの工事は、建設業界において伝説のように語り継がれています。
現在では観光地になっているので、建設業界に興味のある人はぜひ現地に足を運んでみてはいかがでしょうか。