ゼネコンとは、総合建設業を行う企業の総称です。
工事の企画・設計から施工・完成までを一貫して請け負うことで、人材や資材の調達・管理、工程の調整など、工事のあらゆる工程を効率的に進めることができます。
本記事では、ゼネコンの「戦前までの歴史」についてご紹介します。
ゼネコンの成り立ち
ゼネコンの原型は、古代から続く土木建築業にその起源を持つとされています。
ゼネコンの主な機能である土木・建築工事は、古代律令体制にあるといわれています。
「雑徭(ぞうよう)」と呼ばれていた労働力による租税は、国や自治体などを発注者とした公共事業でした。
ただし、雑徭で集められた人々は労働力としてしか見なされておらず、「集団」としての力は持っていなかったようです。
中世
中世になると土木・建築・設計技術が向上し、労働者も技術に応じた技能が求められるようになります。
技術を身に着けた労働者は技能労働者となり、「大工職」として成立するようになりました。
さらに、職業として確立されることで職能集団が誕生し、商業的権益を持ったとされています。
戦国時代になると、大名たちが有能な棟梁に領内の大工を統率させ、「組織」として組成されるようになりました。
江戸・明治時代
江戸時代には、大工たちが「○○組」と呼ばれる労働組織を結成し、共同で工事を行うようになりました。
また、幕末頃になると外国人居留地の大型建設工事などが始まり、技能と労働力の両方が必要でした。
これらの工事は、現代のスーパーゼネコンとなる企業を近代的業務組織へと進化させたといわれています。
明治時代には、西洋の技術を導入し、鉄道や橋梁などの大型工事が盛んに行われるようになりました。
この時期には複数の建設会社が共同で工事を請け負う「請負組合」が登場し、ゼネコンの原型となりました。
特に、中堅のゼネコンはこの時期の鉄道事業を成り立ちとしていることが多いとされています。
日本土木会社の誕生
日本土木会社は、1887年(明治20年)に渋沢栄一と藤田伝三郎によって設立された、日本初の総合建設会社です。
当初は、鉄道や道路などの公共工事を請け負っていましたが、その後は民間工事にも進出し、事業領域を拡大しました。
代表的な実績としては、東京駅の建設や琵琶湖疏水の整備などが挙げられます。
日本土木会社の設立は、日本の土木業界にとって画期的な出来事でした。
それまでの土木工事は、大工や石工などの職人が共同で行う小規模なものが主流でした。
その中で、日本土木会社は工事の企画・設計から施工・完成までを一貫して請け負う総合建設会社として、日本の土木工事の近代化を牽引したとされています。
日本土木会社は、1908年(明治41年)に大成建設株式会社に改称されました。
しかし、日本土木会社の創業の歴史は、現在の大成建設の礎を築き、建設業界において重要な位置を占めています。
大正時代
日清戦争による償金によって産業革命が進んだ日本では、この時期「鉄とセメントの導入」という大きな出来事がありました。
土と木であった材料がセメントと鉄に置き換えられたことで、工事に求められる技術水準が大幅に上がったのです。
従来の職人には、一定の専門的技能は求められていたものの、その大半はものを運んだり、組み立てたりなどの単純作業でした。
しかし、技術水準が上がったことにより、鉄筋コンクリートが導入され、従来のような単純施工では対応が困難な事業も増えました。
そのため鉄筋コンクリートの扱いが可能な事業者は、施工体制の整備、新たな技能労働者の要請、設備の機械化を進めていくようになります。
このような技術変革によって、専門職集団としてのゼネコンが誕生しました。
関東大震災からの復興
1923年に発生した関東大震災は、大きな被害をもたらしました。
関東大震災の復興需要によって、大正末期から昭和にかけて多くの建設事業者が誕生したとされています。
復興に伴う区画整理事業、街路網や橋梁の整備だけでなく、国内外の発電ダム建設、大陸での鉄道建設、関門海底トンネルなど、多くの大規模な土木プロジェクトが進められていました。
こうした事業は、戦後復興や高度経済成長期を支える基盤にもなったと考えられています。
また、土木技術水準が大きく上がったのと同時に、近代的な企業体へと生まれ変わり、さまざまな中小事業者が淘汰され、今日まで続く大手事業者の地位が確固たるものになった時期ともいわれています。
ゼネコンの成り立ちについて知ろう
戦前までのゼネコンは、主に公共事業を請け負っていました。
大手ゼネコンは、政府や財閥と密接な関係を築いており、政官財一体の体制の中で発展を遂げました。
ゼネコンは、日本の近代化と経済発展を支えてきた重要な産業です。
今後も、日本の社会や経済の発展に貢献していくことが期待されています。